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バージョン1:穏やかな世界--ヒッチコック『めまい』を想起させる演出法

招待された夕食の席で、アナはヘルゲに自分の子供の頃の思い出を語る。「ある女性と湖のほとりにいたことかしら。彼女は一緒に泳ぐ私を、胸に抱きかかえた。幸せそうにね」この切ない話は『チャイルドコール 呼声』の骨格をなす、興味深いモチーフである。この話を基に、映画では四つのエピソードが描かれている。そこには、森、湖、アナが森で遭遇する同じアパートに住む謎の女性が登場する。子供を虐待するシーンもあり、その演出法はヒッチコックの『めまい』(1958)の有名な追跡シーンを思い起こさせる。最初のエピソードは、アナが切望する穏やかな世界で、ここではアナは抱いている不安を忘れることができる。
 
 
 
 
 
 
 
 

バージョン2:現実に近い世界--幻の湖

このエピソードでも、2人の人間がちょっとした遠出をする。しかし、ここではバージョン1にあった、不安から解き放たれるような雰囲気は失われている。またバージョン1で登場した2人が持っていた、人が後ろからついて行きたくなるような力は、ここにはない。この2つのバージョンでは虐待が目撃されることはない。また、この2人が親子関係であるかは示されていない。
 
 
 
 
 
 
このエピソードはバージョン1に比べて抑制されたトーンで描かれている。画面の光景から2人が歩く行程はバージョン1と同じであると思われるが、着いた場所は駐車場であり、湖ではない。この後の病院のシーンでの、アナが駐車場で倒れていたという説明からもわかるが、周囲の人間はその場所は駐車場であると認識している。アナは謎の女性に導かれて進んで行くが、その場所は、まさに殺された“近所の少年”が埋められていた場所である。とはいえ、茂みの中で女性が探しているものが何かはこのシーンでは明らかにされていない。

バージョン3: アナの悪夢の世界--心の動揺と不安

このバージョンでは、バージョン1と対極の世界が描かれる。これはアナの悪夢の世界である。殺人事件の謎に近づいていくことによる心の動揺と、アンデシュを元夫に奪われるのではないかという不安から、アナの悪夢は膨らんでゆく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
このシーンで、アナは現実を否定し、“近所の少年”の死体が埋められた場所を調べる格好の機会を生かすこともなく、恐怖に満ちた悪夢にどっぷりと浸かってしまう。湖が再び現れる。アナの眼の前で繰り広げられる殺人は、彼女の過去の経験を他人が代わりに演じている光景である。そこで“近所の少年”が演じているのはアンデシュ、殺人犯はアナの元夫を演じている。目の前で溺れるアンデシュの姿は、実際にアナが見た光景に酷似しているに違いない。驚き、息子を救おうと必死になる殺人犯の妻はアナ自身である。バージョン1で、女性は子供と一緒に湖へと向かう優しい母親として登場する。バージョン2では、現実世界の本当の彼女の姿を見せ、彼女が“近所の少年”への虐待行為に加担したであろうことを匂わせている(湖における殺人、美しい陽の光を浴びながらの邪悪な殺人、不穏な雰囲気。これらはコーレ・バーグストルム監督作‘De dødes tjern’(1958: 「死の湖」、日本未公開)と共通する点である)。(訳注: Kåre Bergstrøm(1911~1976)はノルウェーの映画監督。「死の湖」はスリラー映画で、2001年に関係者の投票によるノルウェー映画ベスト5の1本に選ばれている。)

バージョン4:フィクションの世界

映画のラストを飾るこのエピソードは、アナの子供時代の思い出をベースにしている。亡くなったアナが安置されている部屋で、ヘルゲは明るく詩のような物語を語る。「その昔、幼い男の子と母親が暮らしていた。2人は新天地へ。誰も知らず、頼れるのはお互いだけ。ある日、2人は森へ散歩に出かけた。家の隣にある森だ。そして迷子に・・・。突然、木の間から光る何かが見えた。2人は近寄った。光る正体は、湖だった」

このモノローグに観客は心を揺さぶられ、それは映画のラストに向けていっそう強まっていくことだろう。この箇所について論じてみる。まず、アナの死に関連する画像を見てみよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
映画の中で流れる音楽は穏やかなもので統一されている。ここではバージョン1と、アナとアンデシュがショッピングモールでお茶を飲むシーンで流れる音楽が再び使われている。この2つのシーンでアナは幸せな気持ちでいる。ヘルゲがそのような光景を想像し語ることで、アナの幸せな気持ちがバージョン1だけでなく、映画全体に行き渡ることになる。ヘルゲがアナの子供の頃の思い出を語るとき、そこに死んだアナとアンデシュの姿が現れる。しかし、ここに、より深い意味があることが、次のヘルゲの2つの表情から読み取ることができる。
 
この2つのシーンは酷似している。光の当たり具合は異なるものの、ヘルゲは同じ服装で同じ姿勢で座っている。もっと興味深いのは、死体安置所と母親の病室の背景がそっくりであることである。奥にはトイレが見える。2つの画面の中でトイレの位置は同一である。病室の背景と死体安置所の背景が似ていることは不自然だ(もちろん、死者はトイレを必要としない)。仮にアナが病院に安置されているとしても、その部屋の光景は母親の病室の光景とは異なっているであろう。

この2つのシーンはヘルゲがアナだけではなく、同時に自分の母親にも語りかけている、と解釈できる。座って語りかけているヘルゲは、横たわる母親とアナ、それぞれの場所と時間の間で漂っている。その上、ヘルゲが語りかけている相手は死者で、この2人は鏡の表裏の関係にある(ヘルゲの、嫌な世界を美しい世界に変えたい、という希望がここにも働いている)。

作品中の主要登場人物たちがいくつもの形で表裏の関係にあることはすでに論じてきた。この場面で、その集大成が見られる。

バージョン1で見かけた母子のようでありたいとアナは切望していた。それはバージョン4で魔法のように実現する。そこではアナが切望していた状況を、彼女たち自身が具象化する。ヘルゲが語る物語は、子供の頃のアナが母親と一緒にいる光景を基にして創り上げた物語である。ここでのアナはアナの母親でもある。そして、そこでのアンデシュは、子供時代のアナである。また、アナはヘルゲの母親と表裏一体の関係にあることから、幼いアナはヘルゲ自身でもあり、アナはそのヘルゲの母親である。これらは登場人物同士の置き換えである。

最後に、このヘルゲの写真と、バージョン1、バージョン3で湖の岸辺にいる2人を見つめるアナのクローズアップ写真を比べてみよう。バージョン4の幸せそうな2人を見つめる存在はここにはいない。しかし、写真の構図から考えると、このバージョン4ではヘルゲがアナに代わって、2人を見つめる傍観者の役割を担っていると解釈できる。ヘルゲは、湖の岸辺にいるアナとアンデシュのことを物語にしているのである。ヘルゲは、アナの頬に触れることができず得られなかった喜びを、幸せそうなアナを見ることで得ている。「登場人物の置き換え」で言えば、このシーンで、頬をアナから撫でられて愛情を感じているアンデシュはヘルゲ自身である。
 

レネ『去年マリエンバードで』 に匹敵する構成の緻密さ、巧みな演出

ポール・シュレットアウネ監督は、表裏一体の人物関係に興味があること、人は加害者、被害者の二面性を持つことに関心があると発言している。類似性、表裏一体の人物関係、それらを描くことがこの映画の目的である。そして本作において、この目的は十二分に達成されている。主要登場人物たちの強い結び付きは、あたかも一人のキャラクターを創り上げるような作用をしている。そのキャラクターは、ごく普通の人間が内に秘めている様々な側面を示している。分析を行う前、私は多くの批評家同様、本作を高く評価していなかった。しかし、ヘルゲがアナの家で“近所の少年”に出会うシーンに何かを感じ、詳細に分析を試みた結果、本作で表現されていることの奥深さを知り、非常に驚いた。単純だと思っていた映画の中に、いくつもの類似性、表裏一体の人物関係が存在していたのである。

アラン・レネの傑作『去年マリエンバードで』(1961)は、本作を鑑賞する上で参考になるであろう。ここでは比較分析は行わないが、構成の緻密さ、巧みな演出法にかけては、『チャイルドコール 呼声』は古典的名作に比して決して引けをとらない。この素晴らしさは、初見では気が付き難いであろう。つじつまの合わないミステリーだと思われるかもしれない。しかし、多くの批評家や観客が、ヒッチコックの『めまい』を公開当時、評価しなかったことと、『チャイルドコール 呼声』が評価をされないことは全く同質である。この分析を通して、本作が無視できない深みをもつ作品であることが読者に伝わることを期待する。
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Originally published at Montages.no / Analytical article was written by Mr. Dag Sødtholt